コーンスープ事件から見る心の余裕

先日、あるファミリーレストランに行った。

メニューには「セット」にするとスープバーが付いてくると書いてある。

そんな中、ある中年の夫婦がスープバー(大きな鍋?に和風スープにコーンが入っている)付近に近づいた。

二人はしばらくその場を動かないので何気に見ていると、大きなお玉で鍋のなかの「何か」を探しているようだった。

何を探しているのか!?

それは『コーンだ!』

お玉ですくって、スープを落としコーンだけを取り出している・・・。

それも手に持っているカップ山盛り。

それもそれもカップ2つ・・・。

ずっと見ているとそのコーンを別皿に乗せて「おつまみコーン」に変身させていた。

「やりすぎだろ・・・」

「酷い・・・」

「情けない」

そんな気持ちで自分自身の行動を振り返ってみたら・・・

自分もやってたか・・・!?

「コーンが欲しからいっぱい入らないかな~」的なお玉の動きをしていたじゃないか!

それが自分自身情けなかった。

コーンを取り上げる「量」の違いはあれど、中年夫婦と同じ気持ちが自分にもあったことが・・・。

でも、この気持ち。

誰もが持つものじゃないか?

コーンを取り出す「量」に違和感を感じているのであれば

「私は適量」

「あの中年夫婦は多すぎ」

だと「私」は思っている。

では何粒が適量なのか?

こうなると個人の主観でしかない。

 

コーンスープ事件を受けてあることを思い出した。

かつて海外(基本ハワイしか行かないので海外といえばハワイ)に行ったとき、ホテルのモーニングビュッフェでの出来事。

35ドルのモーニングビュッフェ。

ホテルにしては普通の料金(普段朝食に35ドルは出さないが)。

料金を支払い、席に着くやいなや

「あっ。個別でつくってくれる卵料理コーナーが今なら空いてる!」

「あっ。お腹もそんなに減っていないからサラダをまず取ろうか」

そうこうしていると隣に外国人(私から見た外国人。恐らくアメリカ人なので正確には国内人)カップルが座った。

その二人はホットコーヒーを飲みながら二人で談笑。

そんな二人を見て

「ビュッフェじゃなくてもコーヒーだけのメニューもあるんだな~」

と思って、私は食事をした。

もちろん35ドルの朝食なので、お腹いっぱいの限界をやや越えるくらい食べた。

そろそろホットコーヒーでも飲もうと思った瞬間、隣のカップルは!

ようやくフードを取りに行った!

これだよね。

この余裕感。

いつもは

『自分はしっかりとした基準を持って生きている(はず)』って思っていたのに・・・。

『余裕の無い生き方はしたくない』と思っていたのに・・・。

実は自分も知らず知らずに「嫌な行動」を何気にとっていたんだ・・・。

 

二人を見て

「これ」「こういう余裕が欲しいよね」

って思いました。

 

こんなことを振り返って考えることは

真に心の余裕を持てれば「スープ事件」が発生した時、自分は別の感じ方があったのではないか。

真に心の余裕を持てれば・・・

スープ事件を通じて多くの気づきを得ることが出来ました。